「お母さんの夢は?」
息子の一言が、しまい込んでいた思いを掘り起こした。
2025年赴任。ブランクを経て、再び教員の道に。
「1度目」の教員生活は、家庭とともに一区切りした
社会人生活の始まりは、銀行の後方事務。結婚を前に無理のない働き方へ切り替えようとしていた、ちょうどそのとき。学生時代の恩師から電話がかかってきた。「学校で、家庭科の先生をやってみないか」。中学校家庭科の教員免許を持っていた私に、臨時のお誘いだった。引越しを決め、明日には電話番号が変わるという直前の一本。「いま思うと、運命のようなものを感じます」。
東京都の中学校へ、千葉の自宅から通った。初めは通常学級の家庭科、2年目からは特別支援学級も。少しでもお役に立とうとがんばった。長い通勤も何とか乗り切った。そして出産を前に退職。「1度目」の臨時の教員生活は、ここで一区切りとなる。その後は子育てを楽しみ、息子が幼稚園に入ると、近所のテニススクールでフロントのパートも始めた。家庭を大事にできる----その願いが叶った日々だった。
「お母さんの夢は、何?」
息子が小学3年生のある日。スポーツ選手になるのが夢だと、いつものように話していた息子が、ふと言った。「お母さんの夢は、何? 僕にはやりたいことがあるけど、お母さんにはないの?」。息子を支え、家族を大事にすることが自分の仕事だ----そう思ってきた。でも、その一言が、しまい込んでいたものを揺さぶった。
思い出したのは、20代で教員をしていた頃のこと。あの頃はまだ経験も浅く、できないことがたくさんあった。出産し、子育てをして、たくさんの大変さと嬉しさを味わった今なら、きっともっとできることがある。学校便りに、特別支援学級の非常勤の募集があった。でも、私には家族が大事だ。悩んだ。もし私が教員に復帰したら、まだ小学生の息子はどう感じるだろう。思いをそのまま話すと、息子はあっけらかんと言った。「やればいいじゃん。やれるよ」。その一言に、背中を押された。
とにかく、毎日が楽しい
2年間の非常勤講師を経て、今年度から常勤講師として特別支援学級1年生の担任に。国語、家庭科、道徳、そして「自立」「作業」といった特別支援ならではの授業も、自分が主体となって行う。「とにかく子どもたちが明るくて、一緒にいるとこっちまで気持ちが明るくなるんです」。朝の「昨日ね、こんなことがあってね」から一日が始まり、「今日の授業すごい楽しかった!」で終わる。
授業には工夫を凝らす。カタカナ語をカタカナなしで説明するゲーム。「はあ」をいろんな抑揚で言い合うゲーム。言葉ではうまく気持ちを伝えられない子も、"音"なら気持ちを伝えられる。ミシンを怖がる子には、車の運転にたとえた。「手はハンドル、足はアクセル。思いきり踏むと危ないから、安全運転でまっすぐ」。すると、その子は要領をつかみ、楽しそうにミシンに向かえるようになった。「できない」が「できた!好き!」に変わる瞬間が、嬉しい。子育てと一緒。ちなみに、ゲームは息子がやっていたのを拝借したものだ。こんなところでも、子育ての経験が生きている。
50になっても、60になっても
これから、どう働いていきたいか。答えは「現状維持」。いまが全力なので、このまま全力でいたい。適当になりたくない。いま、40代の半ば。50歳になっても、60歳になっても、こう働いていたい、と思う。
年齢も性別も経験も関係ない職場だと、働いてみて分かった。苦手はみんなでカバーし合える。私もパソコンがからきしダメ。でも、大丈夫。学校には、必ず得意な先生がいて、教えるのがすごく上手だから。子育てをしながら全力で、楽しく。むしろ、子育ての経験があるからこそできることがたくさんある。私はこの仕事だからこそ、家族も、自分も、大切にできている。
しまい込んでいた「やり残したこと」が、巡り巡って、戻ってくることがある。
20代で果たせなかったことを、彼女は回り道の末に取り戻した。しかも、あいだの「子育て」という時間そのものが、いまの武器になっている。
あきらめたと思っていても、実は終わっていないこともある。そこに戻って、輝いている人は実際にいます。
※「ちばで転職した、ひとのはなし」編集部セレクト。ご本人・所属先の意向により、お名前は伏せて掲載しています。